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幸せとは、夢を叶えるとは、基本的人権の中にも幸福追求権があり、誰もが等しく幸福になる権利があります。 幸せ求め人コロコロの日記です。
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  • 04/27/04:21

03.26.21:16

藤堂高虎

藤堂高虎信長、秀吉、家康と主君を時代の流れに変え、地侍から大名へと上り詰めた戦国武将の勝ち組、藤堂高虎。その「200ヶ条の家訓」に記された出世の方程式とは?ちょっと興味ありますね。

近江国藤堂村の土豪・藤堂虎高の次男に生まれ、元々は武士に家系ながら父の代には衰退してほぼ農民同然の状況だったらしいよ。

生まれたときから人一倍乳を飲み、泣き声を一切あげなかったと言われ、5歳ごろには大人と同じ量の食事を食べて、身長6尺2寸(約190cm)・体重30貫(約110kg)の巨漢に成長し

近江国の大名・浅井長政に仕えた藤堂高虎は、姉川の戦いで初陣を飾り、戦功を挙げて浅井長政より感状を与えられる。
しかし当時はまだ巨大な体をもてあましていたのか、同僚を諍いの果てに殺してしまった為に出奔し、元浅井家臣の阿閉貞征に仕えたが一ヶ月程で出奔。

これではいけないと武勇以外の術を学びながら浪人生活を送る中で織田信長に浅井長政が滅ぼされると、元浅井家臣で織田信長に降伏した磯野員昌に仕える。

2年ほど仕えた後、織田信長の縁者である津田信澄に80石で仕えた。

丹波攻めで戦功を上げるものの津田信澄に嫌われていたのか加増されず、この事を不満として出奔し羽柴秀吉の弟・羽柴秀長に300石で仕えた。

農民出身の羽柴秀長とは気があったのか、それとも播磨三木城攻めに従軍して戦功を上げると名馬「賀古黒」と3000石の加増を受けた事から、自分を評価してくれる上司に巡り合ったと感じたのか、藤堂高虎は羽柴秀長に対して忠節を貫く。

羽柴秀長に従って中国征伐や賤ヶ岳の戦いや小牧・長久手の戦いに従軍して戦功をあげて4600石に加増され、紀伊雑賀攻めでは雑賀党の首領・鈴木重意を自害に追い込み、四国征伐では敵将・谷忠澄を説得して降伏させる等して謀略面でも活躍。
得意の築城技術を用いて徳川家康の京都屋敷を自費で普請して徳川家康と誼を結び、九州征伐での戦功で2万石の大名になった。

豊臣秀長(羽柴秀長)が没すると、養子の豊臣秀保を後見し、まだ若年の豊臣秀保にかわって文禄の役に参加して渡海する等、大和豊臣家に対して奉公した。4年後、豊臣秀保が早世して主家が断絶すると、主君二人を弔う為に高野山にて出家して隠棲した。しかし藤堂高虎の才能を惜しんだ豊臣秀吉により還俗させられて、伊予宇和島7万石の大名となる。慶長の役には水軍を率いて慶長の役に参加して海戦で勝利し、8万石に加増された。

が、秀吉が没した後の時代を先読みした藤堂高虎は、いち早く徳川家康に接近して諜報役として働き、情報分析に務めて徳川家康の危急を度々救った。豊臣秀吉が没した後に発生した関ヶ原の戦いでは、豊臣恩顧の武将でありながら徳川家康の東軍についた。
このとき朽木元綱・脇坂安治・小川祐忠・赤座直保らを裏切らせる事前工作を担当し、本番では大谷吉継の本隊と戦って東軍を勝利に導き、戦後は伊予半国分にあたる20万石を与えられた。

その後は、多くの外様大名が江戸から遠ざけられる中で、徳川家における外様筆頭の藤堂高虎は逆に、伊予・今治20万石から伊勢・津24万石へとより江戸や徳川家康の居た駿府に近いところへと異動となるという異例の人事を受ける。徳川家康に一目置かれた存在となり、大坂冬の陣においても徳川軍として参加して外様組の先鋒を務めた。
このときは真田丸に籠もる真田信繁に大ダメージを与えられた他、家臣の統率に失敗する等あってこれといった大きな戦功を上げることは無く、大坂夏の陣では多数の家臣を失った。しかし犠牲を厭わぬ猛攻が評価されて戦後に32万石に加増された。

江戸幕府の体制が確立して以降も、外様の筆頭として仕えて日光東照宮の造営や、徳川秀忠の娘の入内に奔走し、

和子姫が入内できなかった場合は責任をとり御所で切腹する

と言って反対派を黙らせる等、老いても盛んに働いていたが、晩年には眼病を患って失明し、享年75歳の人生を終えた。

藤堂高虎が造営を担当した徳川家康の廟・日光東照宮には、徳川家康の像の隣に南光坊天海と共に藤堂高虎の像が並べられている。

江戸時代には儒教の教えが広まり、不忠という点からはあまり評価されてはいないけれど、当時を生き抜くために自分で決断していき、人生を切り開いていくことに関してはすばらしい評価を得る人物なので、私は好きな人の一人である。

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